|
フレイミングハム()は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州の中央部、ミドルセックス郡の南部に位置する町である。2010年の国勢調査では人口68,318 人であり、マサチューセッツ州の町では最多である。1700年に町として設立された。CNNの雑誌「マネー」の2012年「アメリカで住むために最適な場所」リストでは第36位に入った。 == 歴史 == フレイミングハムはオールド・コネチカット・パスと呼ばれる古代の道沿いにあり、1647年にサドベリー川西岸にジョン・ストーンが入植したのが開拓の始まりだった。1660年、マサチューセッツ湾植民地の役人であり、イングランドのサフォークにあるフレイムリンガム出身だったトマス・ダンフォースが、「ダンフォース農園」のある土地の払下げを受け、15,000エーカー (60 km²) 以上となる資産の蓄積を始めた。ダンフォースは町の法人化については断固として請願を出すことに抵抗したので、公式の法人化はダンフォースが死んだ翌年の1700年になった。イングランドのフレイムリンガム("Framlingham")の綴りの"L"が何故落とされたのかは不明である。最初の教会は1701年に組織され、1706年には最初の教師が雇用され、最初の恒久的学校舎ができたのは1716年だった。 1775年2月22日、イギリス軍のトマス・ゲイジ将軍が2人の士官とボストン出身の兵士1人を派遣し、ウースターに向かう道路の調査を行わせた。フレイミングハムでは、それらのスパイがバックミンスターの酒場に立ち寄った。彼らは町の民兵が建物の外に集合する様子を観察し、その数に驚いたが、その訓練度合いには印象を受けなかった。その訓練後に「全中隊が」酒場に入って来たが、士官達は見破られないように工夫し、翌日もその任務を継続した〔''General Gage's Instructions'', Boston: John Gill, 1779.〕。4月18日から19日、ゲイジはその道路沿いに行軍を命令せず、その代わりにコンコードに向かうよう命じた。フレイミングハムはそれに続いたレキシントン・コンコードの戦いに、2個中隊約130名の民兵を派遣した。その中で1名が負傷した〔Samuel Adams Drake, ''History of Middlesex County, Massachusetts'' (Boston: Estes & Lauriat, 1880), vol. 1, p. 443〕。 南北戦争に繋がる時代、フレイミングハムは奴隷制度廃止運動家が毎年集合する地点になった。1854年から1865年の毎年独立記念日に、マサチューセッツ反奴隷制度協会が現在のフレイミングハム中心街に近いハーモニーグローブと呼ばれるピクニック場で集会を開催した。1854年の集会では、ウィリアム・ロイド・ガリソンが1850年に成立した逃亡奴隷法、それを強制する判決文、およびアメリカ合衆国憲法の写しを燃やした。その日に出席した他の著名な奴隷制度廃止運動家としては、ウィリアム・クーパー・ネル、ソジャーナ・トゥルース、ウェンデル・フィリップス、ルーシー・ストーン、ヘンリー・デイヴィッド・ソローがいた〔Donald Yacovone, "A Covenant with Death and an Agreement with Hell," at http://www.masshist.org/objects/2005july.cfm〕。 第二次世界大戦後のベビーブームの時代に、フレイミングハムは他の多くの郊外地域と同様に人口と家屋の大きな増加を経験した。この時代に建設された家屋の多くはスキップフロアや農場風の家屋で構成されている。 フレイミングハムは心臓病の研究で知られる。また1844年に宝石とウオッチ・ボックスのメーカーとしてアーロン・ラフキン・デニソンが設立したデニソン・マニュファクチャリング社で知られる。デニソンは近くにあるウォルサム時計会社で、アメリカ式時計製造のパイオニアとなった。その兄弟であるエリファレット・ウォーフ・デニソンはその会社をかなりの大きさの複合企業に育て、1990年には合併してアベリー・デニソンとし、本社はカリフォルニア州パサデナに置き、フレイミングハムには活発な事務所を置いている。 フレイミングハムは2000年にその創立300周年を祝った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレイミングハム (マサチューセッツ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|